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取付ブログ

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今のサウンドピュアディオが出来るまでの40年史+12 

2022-10-31
今年の10月10日で宇部市にカーオーディオ専門店をオープンさせてから40年が経って、
その40年史にお店をオープンさせる前の12年を含めた歴史を紹介するシリーズの第二弾で、
今回は1973年から75年ぐらいまでの中学生活について書き込みたいと思います。



小学校の時に筆記式の試験でアマチュア無線の資格をとったものの、
それで調子に乗ってが普通の勉強をしなかったために成績が下がり、
それで無線機が買ってもらえずに何となく過ごしていた中学1年生の時に、
一緒に試験を受けて落ちた友達はその後勉強を頑張って私立の中学に行き、
一時的な勝ち組・負け組が逆転したというのが前回の終わりでした。



もう無線などという事には縁がないだろうと思っていましたが、
組み立てラジオなどを作って電子工作は続けていて、
8センチと16センチのスピーカーユニットを組み合わせて、
2WAYもどきのスピーカーシステムなどを作ったりしていて、
FM福岡をノイズレスで聴くためにきちんと波長計算したアンテナも作っていて、
どちらかというとオーディオ的な工作の方を行っていました。



しかし中学1年生の後半に運命が変わって来て、2年生の生徒が4人もアマチュア無線の免許を取って、
それで開局する事になったので、そこに便乗して親が無線機を買ってくれると言い出したので、
これ幸いに買ってもらう事にしました。



当時は中学生・高校生は50メガヘルツからアマチュア無線を始めるというのが一つのブームになっていて、
2年生はみんな出力3ワットのポータブル機を買ってもらっていて、
自分は無線機の選択を全て親に任せていたら、10ワットの固定機を買って来ていました。



これが大きな間違いで、電池で移動運用が出来る3ワット機に比べて、
10ワットの固定機では持ち運べないので、先輩が山の上から電波を出しているのを家で聞いて、
「移動出来る機械がいいな。」と思っていました。



50メガはほとんどが学生なので固定機が売れずに、
父親が代わりに買いに行ったのでこれ幸いにと売れない固定機を買わされたではないかと思っても後の祭りで、
家から飛ぶ範囲は決まっていて、たまに強い電離層反射が起こると関東や東北まで届いて、
でもそんな遠い所とたまに話せてもあまり面白くないと、悶々とした状態が続いていました。



そんな中学1年生が最初の間違いを起こして、
その時の無線機は固定機ながら12・5Vの安定化電源で動かす無線機で、
その電源装置のボルトを上げたら出力が増えて少しでも遠くに飛ぶのではないかという考えになって・・



電圧調整をマックスまで上げて運用していました。



(電源は当時の物とは違います)



ところがそれが中学生の浅知恵で、アンテナと無線機の整合性を上げずに電源電圧だけ上げると、
パワートランジスタに無理が行って、最後にトランジスタがパンクしてしまい、
当時のお金で2800円の部品を交換しないといけなくなって、ほぼ1か月のお小遣いが飛んでしまうという、
とても痛い経験をしました。



しかしこの経験が後のピュアコンを生む根源になっていて、無理してパワーを上げるのではなく、
無線機からアンテナに送る電波をアンテナのマッチングを良くして100%放出出来る様にして、
パワーを上げなくても遠くに電波を飛ばす方法を考えるという方向転換するきっかけになったからです。



次にお小遣いをためて無線機屋さんに行って、測定器を買って、
無線機から出力された電波がいかに効率良く放出されているか測るSWR計を買って、
それからはメーターとのにらめっこをしていましたが、もう1つインピーダンスメーターという物があって、
これは当時の価格で7万円ぐらいして、とても買える物ではなかったので、
インピーダンスがSWR値が下がっているからこのぐらいだろうと予測する、
今のピュアコンの調整の基礎となる直感を養う訓練みたいな事をしていたのは、
自分としては全く意識などしておらず、単なる技術的な興味だけと、
お金が無い分時間を使って延々と組合わせを変えるという作業をしていました。



そのうちに親戚の社会人のお兄さんが、
固定機で移動出来ないからとトリオのTR-1200という1ワットのポータブル機を貸してくれて、
これが困った事にスケルチというFMの局間雑音のザーを止める回路が付いておらず、
相手が見つかるまでザーという音を聞くか、
ボリュームを小さくして誰かが呼んだか分からない様な不便な無線機で、
無線の本を読んでいたらこのTR-1200にスケルチ回路を追加する記事が載っていて、
パーツ屋さんで穴あき基盤と部品を買って来て、見事にスケルチ回路が付いたTR-1200で、
山の上で運用出来る様になりました。



これが自分の電子工作で、キットではない基盤のここにこの部品を付けるというガイドの付いていない基盤で
工作した第一歩となりました。



中学2年になった時には小6の弟がアマチュア無線の免許を取って、
この時は既に試験が四者択一になっていたので合格率は格段に上がっていて、
自分が50メガの無線機を持っていたので、弟は144メガの無線機を買ってもらっていました。



ところがこの144メガヘルツは50メガの学生中心から、
社会人の人が車に付けて交信しているという全くユーザー層が違っていて、
これは面白いと自分が弟用に親が買った無線機を自分が独占して、
それで社会人の人の車と交信して、自分は144メガの車載器を自転車の前かごに積んで、
小型のバッテリーアンテナを後ろの荷台に付けてそれで移動運用して、
お互いに場所を打ち合わせて実際に会う事が出来るというスタイルに無線の運用が変わって行きました。



これはこれまではどんな人の声かが分からなかったのが、本人の生声を聞く事が出来て、
性能の悪い無線機やスピーカーでは声が違って聞こえるというのが分かって、
より良い音で聞けるといのも一つのポイントになって来ました。



弟用に買っていた無線はアイコムのIC-22というカートランシ―バーで、
これもなぜ学生なのにポータブル機ではないのか?という不思議な選択で、
父親が同じ無線機屋さんで買って来たので、店の勧められるままで買ったのでしょうが、
逆に運の良い事に受信音だけはポータブル機に比べれば良くて、
外部スピーカーを工夫すれば交信相手の生の声に近い音を再生出来て、
ここが生声を表現する原点になっていると思います。



この頃の交信相手の社会人の方が付けていたアンテナに、ドイツのビジー製のAF-10という
優れたモデルがあって・・



トランクや屋根に穴を開けて付ける、アメリカのパトカーやラリーカーに付いている
あのアンテナを付けておられる方がおられました。



そのビジーのアンテナのコイルは同じインダクタンスでもQ値が高く、
国産の144メガの8分の5波長のアンテナでジリジリノイズが混じるのが、
このアンテナだとノイズレスで受信出来るという優れ物でした。



当時自分は144メガの8分の5波長と50メガの4分の1波長の両方に同調出来るアンテナを
自分で作ろうとしていて、ビジーのQの高いコイルを目標にしていて、
来る日も来る日もコイルを巻いては実験して、測定して結果が悪ければまたほどいてを繰り返していて、
あのビジーのコイルの性能の憎たらしい事と、その社会人の人と会ったらビジーのコイル部分を
じっと見ていました。



自分がコイルを巻く時にはいつもこの中学生の時のコイル巻きの事を思い出すために、
2年前に偶然に福岡の無線機屋さんでAF-10を見つけた時に買って帰って、
仕事の前にこのコイルのQを目指した時の中学生の時の純真な心を忘れない様に目の前に置いて
仕事をしていました。



同じインダクタンスでも高いQでという中学生の意地みたいなものが、
知らないうちに身に付いていて、まさか将来カーオーディオの仕事に就いて役に立つとは知らずに、
何か壁に当たったら無我夢中でそれを何とか解決するという、
そういう電子工作にかける気持ちは10代の時も60になっても変わりません。



ただこの頃に原音に忠実に受信するという工夫をしながらも、
他校の女子生徒の無線家が出て来ると、ちょっといいカッコがしたくなって、
社会人の人がエコーマシーンを使って若干の残響を付けて喋っているのがカッコいいと思って、
それでマイクと無線機の間に自作のエコーマシーンを作って入れるという、完全な邪道に走った時期もあり、
どの方法で遅延させるか?それでいて中学生の小遣いで出来る内容という、かなりチープな物が出来てしまい、
直ぐに使わなくなってしまいました。



そんな余分な費用を使ってしまい、本来の遠くに電波を飛ばすという方向に戻った時には予算が減って、
田舎の無線機屋さんで当時1メートル180円していたインピーダンスが5D-2Vのケーブルが買えず、
メートル当たり100円も安いテレビ用のインピーダンスが75Ωの5C-2Vを使って、何んとか
アンテナ側で工夫して無線機側から見て75Ωに近くなるという、学生ならではの努力をしていました。



自分はアマチュア無線は37年間やめていて、何十年ぶりかに当時中学生同士だった人と交信して、
インピーダンスを変換した自作のアンテナで美祢市から八幡西区まで電波を飛ばして、
あの頃はお金が無かったからあんな努力をしていた、と昔話をしていました。



このお金が無くて何とかインピーダンス変換していたというのが、
ピュアコンのインピーダンス変換技術に直結していて、
学生時代の失敗とそれを乗り越えての成功の繰り返しで、体の中に知らない間に取り込んでいた様です。



井川のブログはオーディオとは関係ない無線の話が良く出て来ると思われる方もあると思いますが、
他店が気付かない部分に気付いてそこを改善して良い音を再生させているのは、
この様な実験を幼い頃から繰り返して来たからに他ならないでしょう。



37年間やめていた無線を再開して、当時の気持ちが蘇って来て、基本に一度持って新しい技術を
構築しようとしています。



この『今のサウンドピュアディオが出来るまでの40年史+12』は、
2回でやっとスタートから5年が経過したまで進んでいますが、2022年までに何回で最終回になるか、
書き込んでいる自分にも想像が付きません。



トヨタRAV4 カーオーディオの音質アップ 後編

2022-10-30
今日ご紹介する1台は、先日の宇部店の完成車から、トヨタのRAV4です。



カロッツェリアのサイバーナビの大画面タイプの物を取り付けた状態で入庫となって、
フロント2WAYのハイエンドスピーカーの取付の続きです。



ドアの表にアウター・スラントのバッフルを取り付けて、ドアの鉄板とバッフルを金属リングで繋ぎます。



金属リングの表面をセメントコーティングして、表面が乾燥すれば剛性が上がって、
表面の粗目で裏に廻った音を拡散させます。



ピュアディオブランドのZSP-MIDを取り付けたらドアの作業は完了です。



グローブボックスの下には比重の高いMDF板を敷いて、その上に8ピース構成のピュアコンを取り付けて、
スピーカーケーブルはピュアディオブランドの最上級のPMBを使っていいます。



PMBケーブルはSKY3の発売と共に一度廃番としましたが、再発売を望む声が多く、再発売となり、
ピュアディオカタログにはSKY3のみが掲載されています。



ピュアコンでフルレンジ信号を中低音と高音に分離して、
ピュアディオ推奨のハイエンド2WAYスピーカーが完成しました。



システムの結線が終わって音が鳴る様になったら、サイバーナビとピュアコンの調整を行います。



まずはサイバーナビのタイムアライメントを全てゼロにして・・



イコライザー調整を行います。



最初はピュアコンは平均値を入れて、それからRAV4に合わせて値を少しづつ変えて行きます。



最初はイコライザーは中高音を上げ気味でないと物足りなく感じていたのが・・



あれこれとブラックボックスとコイルの値を変えて行くと・ 



何と中高音はほぼフラット近くで最も生音・生声に近くなって来るから不思議なものです。



もちろん効率が上がって体感音圧も最高になって、むりくり上げて迫力を出すというよりも、
自然に体に感じる深い音に仕上がりました。



日頃のアーティストさんとの交流を通して、生の演奏やボーカルを聴く事によって、
本当の感動とは何かを感じる事が出来るシステムに仕上げる事が出来ました。



Nボックス・カスタム カーオーディオの音質アップ

2022-10-29
今日ご紹介する1台は、昨日の福岡店の完成車から、ホンダのNボックス・カスタムです。



ホンダ純正のNボックス・カスタム専用のナビオーディオが装着された状態で入庫となって、
ベーシックパッケージの取付と、ドア防振の施工と、ドアスピーカーの交換の作業を行いました。



まずはドアの外板裏の何も貼ってない部分に防振マットと防振メタルを貼り合わせて、
サービスホールを塞ぐ防振を行います。



内張り裏の吸音フェルトは一度取り外して、セメントコーティングの施工が終わって、
乾燥した後にもう一度内張に戻して、ドアに組み付ければ方ドア3層のフル防振が完成です。



ドアの上の方に付いている純正ツイーターは鳴らなくして、
ダッシュの上にピュアディオブランドのATX-25ツイーターを取り付けて・・



今回は16センチスピーカーは取り外して、
ドアにはインナー取付でピュアディオブランドのZSP-LTD15を取りつけました。



ZSPを取り付けているので6ピース以上のピュアコンが必要で、
グローブ下に比重の高いMDF板を敷いて、ピュアコンを取り付けてから音調整を始めました。



純正ナビの内容はパナソニックのストラーダで、Nボックス専用の音の匠のマスターサウンドの設定は、
かったるい純正2WAYを基準に作られているので、こてもうるさくて耳を覆いたくなる様な勢いで、
これは使えないので新たにイコライザー設定を行いました。



このイコライザー調整が大変で、いくら良い音でセッティング出来たと思ってもメモリー登録すると
微妙に音が変わって、何度も調整・登録・再生を繰り返して、やっと理想の音に辿り着けました。



もちろんピュアコンの数字も少しづつ動かしながら音を決めていて、
より生音・生声に近い状態にセッティングして昨日の作業は終了しました。



今のサウンドピュアディオが出来るまでの40年史+12

2022-10-28
今回複数のお客様のご要望と、自分もカーオーディオ専門店を開店させてから40年が経過した今、
いちど過去の出来事を数年ごとにまとめた長編作を書きたいという思いもあって、
『今のサウンドピュアディオが出来るまでの40年史+12』を書き始める事にしました。



その第1回目は自分がオーディオの音や電子工作に目覚めた年から数年の事を書き込みたいと思います。



過去のブログで同じ様な内容を読まれた方は重複した部分が多々ありますが、何卒ご容赦下さい。



自分が生まれた家は山口県の美祢市の山奥にあり、
子供の頃も今も自動販売機を置いている場所がないぐらいの田舎に育ちました。



小学校は子供の足で歩いて15分ぐらいの所にありましたが、
1年生と2年生、3年生と4年生が一人の先生が行うという複式事業で、
こういう学校は勉強についていけない劣等生と、、やたら勉強が出来る秀才とに分かれてしまい、
自分が小学生の時にこの里から東大に合格した人がいて、
同級生の親は自分の子供も東大か京大に入れたいと予習に念が無くて、
自分はあっという間に勉強に付いて行けなくなりました。



先日生まれ育った家の庭に立って、右を見たら山の向こうには宇部市楠木町万倉があり・・



正面の高い山の向こうは宇部市楠木町木部で・・



左方向は美祢市秋芳町ですが、どこへも真っ直ぐ行けば近いのですが、
山を避けて遠回りしないと行けないので、意外と時間がかかります。



子供の頃は山歩きしたり、家で本を読んだりという遊び方で、
井川家は祖父の代までは林業で何十年に一度の収入を得ていて、
日ごろの生活は農業の収入で食べて行っていて、
父の代からはサラリーマンをしながら林業と農業をしていたので、父親は休む暇なく働いていました。



そんな父親が山仕事に行くのにトランジスタラジオを持って行っていて、
ある日父が置いて行ったトランジスタラジオのスイッチを入れたら、
そこから音楽が聞こえて来てビックリしました。



ダイヤルを回して行ったらニュースや英語講座や番組が変わって行って、
これが小学4年生の時にオーディオらしき物に出会った瞬間でした。



それから毎日ベストテン番組の日々の集計を聞いて、
週末になると総合のベスト10とかベスト50をやっている番組があって、
AM放送でしたが毎日何だかの番組で音楽を聴いていました。



漢字で書くと聞くから聴くという風に聴き方が変わって来て、
もっと良い音で音楽を聴きたいと思う様になりました。



そして間もなくラジオが鳴っている仕組みが知りたくなって、
学研のマイキットというボードのにターミナルやラグ板が付いていて、
そこに部品のはめ替えを行う事で何種類かの回路を組む事の出来る実験セットを買ってもらって
電子回路の基礎を学びました。



そのキットの中でも最も難しいのがAMラジオで、
田舎の山の中ではトランジスタが1個2個のラジオでは上手く受信出来ず、
6個ぐらいのトランジスタを組み合わせたラジオでないと音楽がきちんと聴けない事が分かりました。



ただトランジスタの個数以上に市販のラジオに比べたら感度が悪い組み立てラジオでは、
アンテナが重要になって来て、銅線をグルグル巻いてコイルにして、
波長が長い中波のラジオの感度を上げようと我流でコイルを巻いていました。



たまたま父親が勤めていた石灰石加工会社では、自社で採石場を持っていて、
ダイナマイトを爆発させて石灰石を砕いた後の銅の細いリード線がやたらと余っていて、
現場から拾って帰ってくれていたので、巻く同線には不自由していなくて、
出来が悪くても好きなだけ次のコイルが巻けていたので、暇があれがグルグルとコイルを巻いていて、
学校で鉄に銅線を巻いて電磁石を作る実験では、
自分の巻いたコイルはやたらと釘を引き付ける力が強かったのを思い出しました。



そんなAMラジオを聞くだけでは気が済まず、
組み立てラジオを作ったりアンテナ用のコイルを巻いていた井川少年は、
世の中にFMラジオがあるという事を知って、更にカセットテープという物があって、
ラジオで決まった時間に何がかかるか待って聴いていた音楽が、
一度録音したら何度も聴けるというのを町の家電屋さんに行って知って、
小学5年生の誕生日にはこれが欲しいと親におねだりました。



そのラジオカセットはソニーのCF-1500で、
FM・AMラジオの他にカセットテープレコーダーとFMワイヤレス機能が付いていて、
自分の声をマイクで電波で飛ばしたり、カセットで録音した音を他のFMラジオに飛ばすという事が出来て、
近くの同級生もナショナル(今のパナソニック)製のラジカセを買ってもらって、
FMのワイヤレス遊びというのを始めました。




ただこのワイヤレス機能が100メートル以内という飛距離が半分の50メートルも飛ばず、
ロッドアンテナの先に銅線を継ぎ足して長くしたら何だか飛びが良くなった様な気がして、
でも当時は波長計算などという概念もなくて、ただ長くしてもその割に飛距離が伸びず、
半分FMのワイヤレス遊びも飽き気味になっていました。



ところがある日ラジカセからかすかにFMラジオで音楽が連続して流れている周波数があって、
誰がワイヤレスで音楽を流しているのだろうと、歩いて楠町の手前まで続いている道を歩き始めて、
この上の方の集落に高校生か大学生がいて、趣味の音楽をワイヤレス送信しているのだろうという予測で
歩き始めて、確かに歩いて上の方に上がるけれども電波は強くなっても発信場所には着かずに、
とうとう人気のない車が通れない狭い山道に入りました。



ずっと音楽が流れていたそのFMの電波は、
北九州市の皿倉山から出ているFM福岡が開局する前の試験放送の電波で、たまに試験電波と言っていて、
数日後には本放送となって、毎日AMラジオでは聴く事の出来ない音質の高さで音楽を聴かせてくれました。



当時は美祢市でも皿倉山の電波が届かない地域が多く、
もし自分がその地域に住んでいたら今のオーディオの仕事をしていたかどうか分からず、
そのFM福岡の電波が届く場所に住んでいた事がその後の人生に大きく影響しました。



更にその1年後の1972年には自分の住んでいた山の中の複式授業の小学校が廃校となって、
バスに乗って遠くの大きな小学校に通う事になりました。



どちらにしても中学生になったら大きな4つの小学校から生徒が集まる学校に行かないと
いけなかったのですが、小学校の最後の1年だけ4つの小学校が統合した新校舎で勉強して、
同級生の数は一気に20倍になりました。



その新しい小学校の理科の先生が車に144メガのアマチュア無線機
(当時は145メガではなくて1メガ低かった)が付いていて、
これは何だ?とよく車内をのぞき込んでいて、
先生に「井川君は無線機に興味があるかね?」と聞かれて「はい!」と答えました。



当時はFM福岡をいかにノイズレスで綺麗に聴くかにこだわっていて、
波長計算も分からずにあてづっぽでロッドアンテナの先に銅線を繋いで伸ばして、
「この長さが良かった。」とか、「この方向に曲げたら良かった。」とかの実験を
やたらめったら我流でしていて、「この知識を手に入れたら我流から足が洗える!」という興味本位で
その先生の話に耳を傾けました。



それが小学6年生の1学期で、1学期が終わる前に先生から
「萩市でアマチュア無線の講習会があるから行ってみないか?」と誘われて、
6年生になって知り合ったFMのワイヤレス遊びを一緒にしていた友達と受けに行く事にしました。



同級生は親戚の家で従弟がいる家に泊まって、自分は萩市に近い親戚がおらず、
母方の祖父の従弟の家があるという事で、全く合った事の無い遠い親戚の家に泊まって、
1週間か10日ぐらいだったか遠洋漁業に出る船の無線技士を育てる
通称『電波学校』と呼ばれていた場所に歩いて通いました。



今考えたら小学生でよくこんな難しい事が憶えられたと思うのですが、若いと頭が柔らかいので、
教える方が良かったというのもあって、難しい電子工学がスイスイと頭の中に入りました。



最終日に修了試験があって、現在のアマチュア無線の4級は四者択一式の試験だったのが、
当時は筆記式の四角の中に答えを書き込む方式で、後に試験方法が変わって4級の合格者が一気に増えて、
中学になって試験に受かった友達からは、「井川は難しい試験で受かって損したな。」と言われましたが、
後にその難しかった時期に合格した事が後の知識としての財産になって、
1年半から行っている社員教育に4級の教科書を使うと、
自分が小学6年生の時に出ていた内容が省かれていて、
3級の方に回されているので、今考えたら3級相当の勉強をしていたと思います。



当時一緒に講習を受けた同級生は従弟がいる家だったので一緒に遊んで復習する時間が無かったのか、
自分は知らない大人しかいない家で延々勉強していたというのもあって、自分は合格して友達は落ちました。



ただそれで自分は調子に乗って学校の勉強をせず、
成績が下がって無線を勧めた先生から父親に「無線機を買ってはいけない!」と言われて、
実際に無線で電波を出して実験を行う事がしばらく出来ませんでした。



今が考えたら事が人生の初めての大きな挫折で、『勝って兜のお尾を閉めよ!』ということわざの意味を
小学6年生で知る事になり、それ以上に自分の事で父親が呼び出されて叱られた事にショックを受けました。



今考えたらこの事も人生の需要な経験で、小学6年生で絶頂とドツボを数か月で経験する事になり、
物事が上手く行った時に油断しないという習慣が身に付いた出来事でもありました。



今回は1970年から72年までの事を書き込みましたが、
この時点ではカーオーディオの道に進む事は全く見えて来ていないのですが、
実は高校を卒業した後に電波学校の講師の方に会った事があり、
それがカーオーディオの道に進むきっかけになっているので、
このシリーズを末永く見守って頂けるとありがたいです。



朝のブログで1回が4年から6年ぐらいと書き込んでいましたが、
今日は2年しか進まなかった『今のサウンドピュアディオが出来るまでの40年史+12』ですが、
プラス12のうちの2の部分をお届け致しました。



新・お客様の質問にお答えして 第31話

2022-10-28
不定期シリーズのお客様の質問にお答えしては、新シリーズとなって先月で30回目を迎え、
しかも先月は番外編も1回書いているので3回の書き込みが、
今月は気が付いたら28日になっているのに1度も書いておらず、
シェフの気まぐれサラダ的なブログにしては気まぐれ過ぎだろうと言われそうです。



そんなこのシリーズへの質問が無かった訳ではないのですが、
どうしようかな?と迷っているうちにあっという間に1カ月が過ぎてしまい、
その何人かのお客様への回答をここでさせて頂きます。



まず1つめのご質問というかご要望は、このお客様の質問に答えてのシリーズはきまぐれという割には
重要な事が書かれている事が多く、この質問に答える部分だけを簡単に読める様に出来ませんかという
ご要望がありました。



2つ目は複数のお客様から頂いていたこちらもご要望ですが、
質問にお答えしてで重要な事が書かれていますが、これが時系列でいうとバラバラで、
1回の書き込みで20年とか40年とかがザックリと書かれていて、
これを5年とか10年ごとに年代を分けてきちんと書いて欲しいというか、
ピュアディオの40年史的なものを書いて欲しいというご要望がありました。



本来は2022年の10月10日の前後に40年史的なものをきちんと書かないといけなかったのが、
その前ぐらいにかなりザックリなものを何回か書き込んでいて、
年代を分けて整理したものを読みたいというお気持ちは良く分かります。



当初はFM山口で55分間の特別番組で音声版を作ろうという案もあったのですが、
9月10月にイベントが重なって、そこで予算を使ったために実現しませんでした。



そこでどうしたものかとここ2週間ぐらい考えていて、新・お客様の質問にお答えしてとは別に、
サウンドピュアディオになる前のオーディオボックスとしての19年間と、
自分の小学4年生から高校を卒業するまでも含んだビフォアーの12年も含んだ、
『今のサウンドピュアディオが出来るまで40年史+12』を4・5・6年刻みのビフォアーが2・3回の
オーディオボックス時代とサウンドピュアディオ時代が4・5回ずつぐらいの超大作で
作ってみようという事になりました。



私は一人で新製品の開発からオリジナルパーツの製作と、
毎日の音調整と2店舗の移動と時間に追われている中で日々のブログ等を書き込んでいるので、
とりあえず40年史+12をスタートさせて頂く事でご質問を頂いた方々にはご了承頂く様お願いします。



という事で『今のサウンドピュアディオが出来るまで40年史+12』は、
本日のこの後のブログでスタートさせて頂きます。



なお『新・お客様の質問にお答えして』のシリーズは、
最新の技術情報や業界の流れ等について別途書き込んでまいります。



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